眉のあたりにすずしさの残る少女みたいに/須賀敦子とその「詩集」について/渡邉建志
 
しのちに詩として発表するならば、ほんとうはそこに一行を開けたくなかったのではないか、と思うとともに、「もいだばかりの」のあとに須賀がちょっと思案したようすが伺われて、その「ひと息」のドキュメンタリー性がこの消し跡の行にはある。その思案が、漢字を思い出すためのものだったか、どの果実を選ぼうかという迷いだったかは、分からないにせよ。そのドキュメンタリー性は、この詩集ぜんたいを満たしている空気みたいなもので、それこそ、自分自身のために、自分が声に出して歌うためだけに、書かれているために、世に出ようと思って書かれたぎらぎらした感じがぜんぜんなくて、そのまったく逆の、一筆書きのような清らかさ、いさぎよさばか
[次のページ]
  グループ"フレージストのための音楽"
   Point(2)