眉のあたりにすずしさの残る少女みたいに/須賀敦子とその「詩集」について/渡邉建志
れがオックスフォード御自慢の英語なのかとかなしいきもちでした。全く先生と言われる程の云々で、貧弱な人だとおもいました)自分の詩を大声で讀みました。その大部分はカットされて、アナが勝手なことをしゃべっていました」(『須賀敦子全集第8巻』書簡)と、まあけちょんけちょんである。
「脚韻というのも、なにか人間には本能の一部みたいにそなわっているもののような気がする」(『時のかけらたち』、ハドリアヌスの詩について)という脚韻なども、日本の現代詩においてはもうあまりたいせつにされないのだろうし(わたしの勉強不足かもしれない)、「詩の作法がきっちりとまもられていて、リズムがこころよい」(同上、イタリアの現代詩
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