技術論とミロのヴィーナス/いとう
ば、それは「介在」になり得ず、「私」の提示に留まるだけか、悪くすれば「私」の押し付けになってしまう(と思う)。「私」からの脱却を図ろうとすれば、それはある種、自然な成り行きで、あるいは選択肢のひとつとして、技術等を中心とした批評へ向かうのかもしれない。事実私は、様々な過程を経ながらも、そこへ向かわざるを得なかった。(と同時にもちろん「私」を前提とした批評があってもいいと考えている。すべての人がそこへ向かわなければならないわけではない。)
(余談ではあるが、その「過程」の中で、随分と失礼な評を書いてきたと思う。ここで謝っても仕方ないが、言及はしておきたい。と同時に、もちろん、現時点もまだ「過程
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