技術論とミロのヴィーナス/いとう
 
過程」に過ぎない。)

 ミロのヴィーナスの美しさを技術論から語るための可能性について考えている。原口氏の言うとおり、「ないもの」については書けない。それは確かだ。しかし、「ないものがある」ことについては言及できる。これは単なる言葉遊びではない。腕がないからこその美しさを技術面から語るとすれば、「腕がない」という状態がある、すなわち、ある詩作品に対して批評者が求めるものがないという状態(それは(評者にとっての)欠落かもしれないし、余剰かもしれない)を認識したうえで、それが(詩作品にとっての)欠落でも余剰でもないことを示すことになると思う。実際に行っている評者がいるかどうかはわからないが、方向性
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