技術論とミロのヴィーナス/いとう
く、自らの主観を根拠として作品を論ずる批評形態である(と思っている)。そこには当然ながら「私」が入り込むのであるが、批評においてこの(評者の)「私」を前提とすることに私は疑問を感じるのだ。
山田せばすちゃん氏は「発表された瞬間に詩は作者だけのものではなく読者と共有されるものへと転位するのだ。」と、http://po-m.com/forum/i_doc.php?did=834&from=menu_d.phpにて述べている。私も同意見で、それを基に、共有されやすさを目指し介在(仲立ち)するものが批評であろうと考えている。そこに「私」は似合わない。「私」を伴う存在が介在しようとすれば、
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