詩についての雑文?/窪ワタル
がおもうに、両詩人は、対極にいる。最果氏は「分かる」ということを捨てて書かれている為、読者に残るのは、印象だけである。自己と対峙し、それを叩きつけるようである詩行に、イマジネーションを掻き立てられずには居れない。一方、鈴川氏は「分かる」ということ「伝える」ということに重点を置いて書かれている。その、誠実な文体からは、“書かなければならなかった”という切実を感じさせる。
私は、この両詩人の作品のどちらともに、詩があるとおもう。同時に、詩というものの奥行きの広さも感じるのだ。
詩をいうものは、例外なく言葉で出来ているが、言葉の意味や、文法上の繋がりだけに捕らわれない自由によって作られる芸術なの
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