渦を巻き、堤防を越えて、濁流となって/ホロウ・シカエルボク
 
というものがまずある、その中ですべては生まれて来なければならない、あくまで当り前の自分が語るものでなければならないのだ、能書きにとらわれず、主義主張に振り回されず、矛盾や辻褄を気にすることなく自由に書かれなければならない、そのままで生きている自分が起点となっていないことには、文章になどなんの意味もないのだ、肉体をふたつ持つことは出来ない、そもそもひとつで充分なのだ、もともとたったひとつの魂の言葉の価値が世界を作り上げてきたのだから、分析して形式化することなど無意味なのだ、これはただの放出だ、雨や雷と同じものだ、体内における自然現象なのだ、いつのどんな時代だって、理屈を必要とするのは臆病者だけだよ、
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