渦を巻き、堤防を越えて、濁流となって/ホロウ・シカエルボク
 
けない、だがこれが厄介なことに、何もしない人間は殊更に懸命になっているもののことを異様なまでに受け入れる、受け入れられるから勘違いして度を越えてしまう、それはおそらく、退屈な観客たちの眼前に舞台というものが現れた瞬間からそうなのだろう、彼らはいつだって、ほんの少し自分を勘違いさせてくれる材料を探している、そういうネタを提供することがエンターテイメントだと思っている間抜けも沢山居る、そんなところに真実はない、見つめる目を意識した言動など興醒めってもんだ、そうは思わないか?日本人が大好きな客観という概念がある、だけど果たしてそんなもの、本当に存在するのかね?生身の人間に語れるのは自分自身のことだけさ、
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