もうすぐ百の猿になる。/田中宏輔
考えるのである。ベン=ジェルーンの『砂の子ども』7にある、「私は沈黙のうちに錯乱し、彼女の思考と一体化し、それを私自身の思考として認識することができた。」(菊地有子訳)の「錯乱」という言葉など、ランボーの手紙のなかにある言葉を思い起こさせるが、この主人公は「錯乱」しているというよりはむしろ「錯覚」していると言った方が適切であろう。さて、この辺りで、そろそろ羊の話に戻ろう。まえに引用した「それはいくらか私自身であった。」や「すべての人々のなかに私自身を見る。」などに見られる、ジュネの「誰もが私である。」という言葉に収斂していくものとは違って、ランボーの「我とは、一個の他者である。」という言葉は、これ
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