もうすぐ百の猿になる。/田中宏輔
 
これまで見てきたように、「私」の成り立ちと、その起源について、ほんとうに、さまざまな知見をもたらせる、多元的な認識を示唆するものであった。一方、ジュネの言葉は、そういった多元的な認識を示唆するようなものではなかった。というのも、ジュネの言葉が、まず、「他者」は「他者」であり、「私」は「私」である、ということを前提したものであるからであろう。ランボーの言葉は、その前提にこそ疑いの目を向けさせるものであったのである。

しかし、本当は、どちらがどちらに似てゐたのであらうか?
(三島由紀夫『太陽と鉄』本文)

すべてのものが似ている?
(エリュアール『第二の自然』14、安東次男訳、疑問符加筆
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