引用の詩学。/田中宏輔
(…)地下鉄で乗り合わせたユダヤ人の横顔が、ひょっとすると、キリストのそれであるかもしれないのだ。窓口で釣り銭をわたす手が、ひょっとすると、かつて兵士たちが十字架に釘付けしたそれの再現であるかもしれないのだ。
ひょっとすると、十字架にかけられた顔のある特徴が、鏡の一枚一枚に潜んでいるのではないだろうか。ひょっとすると、その顔が命を失い、消えていったのは、神が万人となるためではなかったのか。
今夜、夢の迷路のなかでその顔を見ながら、明日はそれを忘れていることも無くはないのである。
(J・L・ボルヘス『天国篇、第三十一歌、一0八行』鼓 直訳)
本質的なものは失われる、それ
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