語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン/田中宏輔
動的である、あの自我の有り様は、他者の魂とのやりとり、魂の受け取り合いと与え合いによってもたらされたものなのである。言葉が、音の、映像の、観念の、さいしょのひと鎖となし、わたしの魂に、わたしの魂が保存している音を、映像を、観念を想起させ、つぎのひと鎖を解き放させていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的であり、かつ能動的な活動状態にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだと言えよ
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