齧りかけの林檎という存在-存在論としての齧りかけの林檎-/風船
 
檎はかくかくしかじかの物である」という説明なのか。あるいは、私たちに見えるままの、かくかくしかじかの物と把えられることの、その総体なのか。
 「林檎は林檎であり、それ以外の存在ではない。」という、あるいは、「表皮も果肉もいずれも、林檎を表象しえない」という、奇妙な論理。いずれも、林檎の存在論たりえない。または、表象と実体を分離させ、「表象は存在を提示しえない」から、「実体こそがその存在である」とする論理。「存在の実体を把えるのは精神の認識である」と、認識・精神に還元されることによって、「実体は理念である」と、存在は理念となって、普遍性と精神を求める偉大な形而上哲学者によって、ここに存在は普遍的実
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