鏡/葉leaf
。もう一人の自分ではなく、ブログは自分の身体の延長線上に体を開いている。ブログは新しくできた自分の脳であり口であり耳であり眼である。ブログが自己と同一になったとき、ブログは自分を際限なく許してくれる居場所となる。どんな自分でも、ブログもまた同一の自分なのだから、そんな自分の煩わしさを母親のように許してくれる。どんな無駄話、愚痴、自慢、一方的なディスコミュニケーション、すべて許してくれるのが自己の過程であり延長であるブログ空間だ。
(だがそもそも自己は一枚岩だったか。たとえブログが自己の延長上にあったとしても、そもそも自己が臓器のような複雑な混成体をなしている場合、果たしてそれが投影された場が同一
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