修羅街の人/チャオ
 
論は時代遅れの教師のような扱いを受ける。技術も、理論も排除した感情論なんてこの世に一切存在しないのに。伝えたい言葉があり、それを伝えるべく言葉を駆使し、結局、言葉が死んでしまうこともある。それがいいって言う人もいる。残念だけど、評価されなきゃ食えないこの世に生きて、それをありがたく受け取るほかに手段はないのだ。
対外意識に生きたい思はない。なのにいつだって、誰かの目を気にしなきゃいけない。描きたいもの。受け入れられるもの。苛立ちを、葛藤を、胸中に秘め、吐き出した言葉。それが、売れても、売れなくとも、結局書いた人間はその言葉へ不信を抱いてしまう。「パラドクサルな人生」だ。

大きな波が立たず、
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