生きる/攝津正
 
は表裏一体なのではないだろうか? 抽象的でそれ自体を求める生存要求は、死の要求と裏腹なのではあるまいか? 逆に死の要求は生の欲求なのではあるまいか?
 攝津がドゥルーズで関心を持っていたのは、どうしてこの人はここ迄死にとり憑かれているのだろう、という事だった。ドゥルーズは生の哲学ではなく死の哲学である、そこにおいてジジェクやバディウらラカニアンは正しい。ドゥルージアンはドゥルーズにおける死の審級の意味を見失っている。だが、デビューから晩年に至る迄死、死の経験(体験)というテーマが彼の哲学を貫く。それをどう考えるのか。

 日曜日の晩、攝津は豆乳の飲み過ぎで腹を下した。
 攝津は、両親に収入
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