生きる/攝津正
分勝手な人間としか言い様が無かった。
キリスト教徒はエピキュリアンの事をエピクロスの豚と呼んで貶めたが、自分はそのような豚だ、と攝津は考えた。エピキュリアンと呼ぶに相応しい洗練と優雅が欠けていたとしても、自分は快楽を求め苦痛を避けて生きている、と。そして自らの庭を耕そうとしている。穏健であり温和である。日々自分の生を生き、それに満足、自足している。欠如は無い。不足は無い。不満も無い──筈なのだが、時に攝津は現状に不満を抱いた。だが、もっと恵まれていれば、と思ったところで仕方が無いであろう。攝津は、住み慣れた自分の家に帰り自分の寝床で眠りたいし、家族と食事を共にしたいのである。ツアーだらけの
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