荒地にて2/徐 悠史郎
 
く、作品の受け渡しという相互的な関係形成の過程で生起してくる“詩”という事態においては、授・受それぞれの主体はそれぞれが独我としての<私>という性格でしか現れ得ないということを言っている。「愛と生」、つまり、詩とはお互いが分り合ったり分かち合ったりする場所ではない。お互いが犯し、越境し、破綻し、再生し、変容し合うための、動的な状況である。
 ともあれ、かかる状況下、言い換えれば「愛」または「ほんとう」の位相において、「しかしこのとき、読者は批評家とイコールでありうるか」という捉え返しが笠井氏によってなされる。


   だがそれとは別の問題がひとつある。愛しつつ、共犯しつつ、犯し合うのが作
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