荒地にて2/徐 悠史郎
ぽうでどんなにもがいても逃れ得ない社会の中に人間がある。この与えられた条件の中でなによりも“詩”を生存の価値とするとき、荒地派の<解体>という事件はむしろ、荒地派そのものの存在証明であったろう。解体することによってしか、彼らは荒地を手にすることができなかったということもできるのだ。
どんなに縛っても縛りきれない人間の本質とはなにか。詩によって手繰り寄せられたその“本質”なるもの、そのあらゆる望みがもはや過去としてしか捉えられないという状況を呈している鮎川信夫の詩の中にこそ、私は荒地を見る思いがする。もはや明日を見据えてしまった、灰燼のなかの「泥の眼」を。。。
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