荒地にて2/徐 悠史郎
 


(注1)あたう限りまっさら。。。ほんらいの、完全な「まっさら」という状態で詩を読むということは不可能だろう。はんらいの意味でのまっさらな状態の中では、詩自体が成立しない。


(注2)こうした見解に関連するものとして、柏木麻里「書法論―文字列・画面・重力について」(『別冊GANYMEDE』「詩と詩論」収録 2002年8月 )がある。この論考は柏木氏のウェブサイト「薄明の果実」でも読むことができる。
http://homepage2.nifty.com/dawnfruit/shohoron.html


(注3)これは強調するが作品単体が読み手に与えるものとは別種のなにものかである。しかしながら個々の作品には、それを書き残した(、まさに書き残した)詩人たちの生きた痕が刻印されている。『荒地論』はその刻印に光を照射し、それをあらためて浮かび上がらせたに過ぎない。そしてそれこそがこの書物の名誉なのだと言うべきだ。









戻る   Point(4)