荒地にて2/徐 悠史郎
 
品のなかで何か目新しい発見をひけらかすというような印象があまりない。思想をそこで述べるという感じもあまりなく、思考の断面をさらすという感じもない。むしろそういった思想や思考をし終えた人間からする、人間を冷ややかに見据え切ってしまった目線の呈示以外に、なにもないのではないかという感じがある。
 さきほど鮎川信夫について、「荒地派のイデオローグとしての彼ではなく、一個人としての鮎川」という表現を用いた。荒地派にはこのように、<派>としての理論と個人との乖離があり、またそれは詩という独特の土壌のもとで恐らく彼らの内部で奨励されていたのではないか。どんなに縛ろうとも縛れないものが人間の中にある。いっぽう
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