荒地にて2/徐 悠史郎
 
に書いておきたい。まだなんとも言えないが、このテーゼには重要な問題が含まれているように感じられる。
 戦中の詩<精神>の全面的崩壊をまのあたりにした結果生まれた「荒地派のラジカルな否定力」(=北川)は、必ずしも詩そのものの新しい生きた領野を切り開かなかっただろう。それは例えば田村隆一の繰り出した錐揉みのような観念的語法によっても、黒田三郎が試みた「民衆」また「俗な市民」的な生活感覚への接近によってもなしえず、その後の日本社会の経済復興やそれに伴う日常生活の相対的安定(だが、誰の?)とパラレルな関係を持つかのように現れた「感受性の王国」(大岡信)といったような、言語のリアリティを社会的コンテクスト
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