荒地にて2/徐 悠史郎
 
を〜たらしめている当のものは何か」といったソクラテス的な知の方法の誘惑から逃れることは難しい。だがそれは哲学の方法なのであって批評の方法ではない。まして、詩が普遍などと、いったいどんな関わりがあるというのだろうか。もしあるというのなら、徹底して主情的な立場に立つことは不可能だ、そこにはどうしても客観が入ると私は言いたい。
 私はここで、批評とはどうあるべきかについて、つまりその意義について積極的に述べる積りはない。批評など、読んで面白ければそれでいいと思っている。批評が冷徹な眼で詩を見据え、作品の「愛」に頓着せずにそれを解体することで新しい視野を開いたとしても、その開示された視野がつまらなければ
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