荒地にて2/徐 悠史郎
性予備軍としてやや厚めの層を形成している。ただ、事情が変わらないのは、詩が単純に<目を通される>ということとそれが<共犯的に愛し/愛される>関係を獲得するということとの間にある厖大な距離の存在だろう。いささか批評的に述べれば、笠井氏の「愛」や私の「ほんとう」の文脈において、(語られることなく)示されている詩の姿は、本来的には層としての読者獲得戦略、つまり<マーケティング>の対象としては相容れないものなのではないか。ただし、本来そうでなくとも実際上はそうなってなんら不都合がないというところが、詩の融通のきく点だ。そしてこの融通性は両刃だろう)
「〜である」あるいは「〜とは何か」。すなわち「〜を〜
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