生かされていることへの感謝としての宗教/レヴィナスの宗教哲学−「存在の彼方へ」を読んでみる16/もぐもぐ
 
、「自然/他者に曝されてあること」である。なぜ「借財」かというと、とりあえずのところ私が生きているからである。「自然/他者」はどれだけ私を苦しめようと、とりあえず私の命を保たせている、その時点で既に、私にはその「自然/他者」に対して「借り」がある。自殺することの後ろめたさはここに由来する。私は生を受け生きている時点で、既に、私が身を任せてきた「自然/他者」に対して「借り」を負っているのである。(単に「私が自然/他者に曝されている」という命題から「私がそれらに対して借りを負っている」という命題を導き出すのは、一種の過剰な意味づけというか、不当な推理である可能性があると私は思う。だが、とりあえず今は、
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