殺さないものとしての同族−「存在の彼方へ」を読んでみる15/もぐもぐ
のをまのあたりにする」(p41)
私を「責任」に任命するのは、如何なる意思でも他人でもない。それは<善>のなすことであり、最初から人の手を離れた事柄なのである。私は<善>の手により、始めて「殺すな」「生かせ」という命令を聞き、それと同時に「同族」というもの、また自分だけが「感受しうるという特権的な地位にあること」を知るのである。
このような議論を聞くと、私は常に「不安」に襲われる。これは「神」(名は出されていないが、<善>のイメージの裏表には、神のイメージが見え隠れしている)への絶大な信頼があるからこそ、可能な議論ではなかろうか。人間は「自然」的に、「責任」を聴取する<善>なるもの
[次のページ]
戻る 編 削 Point(0)