時間と認識−「存在の彼方へ」を読んでみる13(2)/もぐもぐ
落としがあると考える。つまり、「経験」が先か、「言葉(観念)」が先かという問題設定は、根底的に言ってしまえば所詮鶏と卵の関係だと言うのである。両者は循環し、相互的に関係を与え合っているとしか、この両者の枠組みのなかで考えている限りは、言えない。この図式から見落とされている何かを見つけ出さなければならない、そうレヴィナスは考えるわけである。
その事実とは何か。その「失われている(喪失されている)」事実とはなにか。それはその、「喪失」という事実そのものである。つまり、「喪失=経過」としての「時間」である。
別の言い方をすれば、これは、「経験(感覚)」と「言葉(概念)」が、常に「所与」としてしか
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