レヴィナスの芸術哲学−「存在の彼方へ」を読んでみる9/もぐもぐ
するのだ。たとえば肩の曲がり具合が幻惑的な大きさで映し出されると、可視的な世界とそこでの正常なサイズの作用によってくらまされ覆い隠されていたものが裸になる」(p109-110)
どんなものでも、極端に顔を寄せると、通常の遠近法が崩れて世界が不安定になる。その際、視覚は「これは〜である」という「対象」の「知覚」を持つことがない。純粋な「ここに〜がある」(実存)が一瞬剥き出しになるのだ。そしてそこに「カメラ」という「枠」があてがわれている。そうして見えてくるもの、発見されるもの、それが「裸」(「音楽」)である。そしてこれによって、「異郷」性が告げ知らされるのだ。
(つまり、「裸」というのは、「
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