「割り切れなさ」と懐疑論−「存在の彼方へ」を読んでみる6/もぐもぐ
 
当然のものとして前提にされても、あまり納得できるものではない。もう少し遡ってその繋がりを確かめなければ、この展開にはついていくことができない。

「存在」という語は、西欧語ではbe動詞等、丁度日本語の「〜である」という語に対応するものである。と同時に、シェークスピアのto be, or not to beの語にあるように、「生」「生きること」をも意味する語である。この両義性が、恐らく「存在」という語が西洋哲学において持ってきた主導的な役割に繋がっているものと思われる。
しかし、日本語で考えている私は、そこに幾つかの媒介項を挿入しなければ、簡単に「〜である」という語と、「生」「生きること」を結
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