当体蓮華?/ケンディ
 
えとして、蓮華と表現しておこう。そういうことになる。したがって蓮華は、特殊な個別具体例の1つに過ぎなくなる。そこには、「他の現れ方もあった」という不確定=偶然な想念が侵入してくる。生の偶然性は、キリスト教の生命観にもあるようだ。ともあれ道生や法雲のとらえ方では、妙法蓮華の本体がどこかにあって、それが個別具体的に、あくまでも一つの例として現れたのが、一「蓮華」である私となってしまう。スピノザの汎神論では、まず神という実体があって、その特殊な現れが、諸々の精神や現象などだととらえられる。スピノザと道生・法雲の発想は同じ構造ではないか。天台と道生・法雲の相違(のもっとも大きなもののひとつ)は、蓮華の特殊
[次のページ]
戻る   Point(0)