当体蓮華?/ケンディ
特殊性つまり私の特殊性を必然ととらえるか、偶然ととらえるかの違いであろう。しかも天台は、上記のように譬喩蓮華を当体蓮華の説明のために活用し、蔑ろにしてはない。故に単なる硬直した決定論に陥ることもない。かつその反対にゼンマイ仕掛けの人形のような人間観、神の被造物や被投性(サルトル)といった偶然的存在論に陥ることもない。人間が最高に個性を発揮する当体蓮華たりうるという人間イメージである。言い換えれば、もっとも豊かな同一性(自身の換え難さ、比類のなさ)と、もっとも豊かな差異(個性、他者の尊重)を、もっとも適切に調和させうるのが当体蓮華の法理といえるだろう。理解がいまだ浅いが、こんなふうに考えたことがあった。
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