当体蓮華?/ケンディ
数に別様の生を受けえたかもしれない(不確定的な)私でありながら、アメリカでもアフリカでもなく日本に、しかも東京でも大阪に、江戸時代でも明治時代でもなく、昭和から平成にかけて出現した。また、他にも無数の考えられうる生の形態パターンの中から、ほかならぬこの生の形態を生きている。この私の特殊性・必然性。(最近、身体を離れた思考の不可能性、むしろ身体性を重視する議論が散見される。)当体蓮華なりと捉える発想。妙法蓮華経であると捉える発想。
それに対し、妙法蓮華経の「蓮華」を譬喩とのみとらえる発想はどうなのか。この発想からは、“蓮華”という因果倶時の現れは、他の華草でもよいが、まあとりあえず分かり易い喩えと
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