当体蓮華?/ケンディ
 
ない発想が、当体蓮華にはある。当体蓮華――蓮華という特殊な存在そのものが表す因果倶時の、《今‐ここ》での現出は、因果倶時の理法(妙法)の譬喩ではなく、法華三昧そのものだ――天台はこのように言う。多様多種の華草がこの世には存在するが、特定の華草(蓮華)が妙法の表現に用いられていること。確かに蓮華は因果倶時を表現するのに適しているかもしれない。しかしもしかしたらそれ以外にも適している華草があるかもしれない中、あえて蓮華と名づけられた当体蓮華。無数の選択肢(があったかもしれない)の中からあえて選ばれたというこの特殊な存在。これは、我々娑婆世界に生きる人間の生き様、その現象形態と合致する。要するに、無数に
[次のページ]
戻る   Point(0)