「生命至上」が、普遍の価値なのか?/カスラ
 
のもないのだ。歴史に「もしも」は有り得ない、そしてその「状況」と「自分」とを確実に切り離すことができるなら、何かを責めることも可能だろう。しかし、「どんな状況にも置かれていない自分」とは、考えることがそもそもできないではないか。今という正にここに、それが特殊である、或は不幸である、多数の他者と比べてと想い悩む理由など本来ないし、次に生まれて来る子供たちも、それぞれにその状況を生きてゆくだろう。また、守るべき「自分」を「人類」と言い換えてもそれは同じことではないか。「人類でないもの」を知らない私たちは、自分自身の行為を価値づける規準をその外には持たない。それなら、それ自身の行為によって、また理知によ
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