「生命至上」が、普遍の価値なのか?/カスラ
はどう思うのであろうか。もしそこに余地余白が許されないとするなら、平和と生命とは守られる“ベキ”ものであるという権利宣言は、すると、いったい誰に向けられることになるのだろう。それは「この私の死だけこそ、は避けられるべきである!」と、自身を指して要求している滑稽な姿にも似ている。いくら要求したとしても、まわりの誰もその要求を叶えることはできず、「初めての、それきりの死」というこの経験は、避けようもなくその人を訪れるだろう。いつの時代も、何処ででも、そして誰にとってであれ、その事実の透明性に変わりはないはずである。このとき、「だからこそ生命は尊いのである」、と続けるならば、それはもはやひとつの「意味」
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