信ずるな、考えよ!/カスラ
救われるという、そのことなのだが、宗教のやり方はそのことを理屈で説かずに、ただ信仰せよとするのは、「方便」としても甘くはなかったか。
大衆にとっての「救い」とは何か。というふうに、いかにも偉そうに聞こえる問いを立てると、顰蹙を買うかもしれないが所有している理性を使用しない、すなわち「理性の働きが弱い」というまさにそのことを指して、「大衆」と呼ぶのだから、やはり大衆には先に理屈を説くべきではなかったのか。
「信仰」の「信」だけではなく、事実私たちは、いかに自信ありげにであっても、「信じる」という言葉で何ごとかを表明する人に、いくばくかの不信感を覚えはしないだろうか。私たちが知ることを望む
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