俳句の授業?/カスラ
鉢の椀も無いほどの赤貧を洗い、布施としての粗末な食物を貰い受けるにも己の両手を上げ、頭を垂れている情景としての句。はたして本当にそうであろうか。先の接続助詞の話しに戻るのだが、そのような貧しく悲惨な現実を哀しみ呪っていたのであれば、放哉は斜線の前を因、後を果として理由付けし、言い訳して、架橋する接続助詞、『から』『ので』を挟んだと想う。ちなみににそれを斜線部に入れて眺め詠んでもらいたい。するととたんに何と賎しい句になることか。この句の精神、命はたちまちに死んでしまう。
今一度句を眺めてみよう。『入れもの』これは彼自身、受容器すなわち彼の魂の器であり彼の本体である。それが『無い』とは無
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