無為自然、苦しみて、苦しむことなく。/生田 稔
 
い。
 大学の教科書を声を出して読み出すと、六畳の間をベニヤ板で囲って半分子にした部屋の隣の下宿人がブツブツ言うのが聞こえる。気になつて手がつかない。学校の授業はぜんぜん面白くない。体は三年にわたる浪人生活で弱り気味、ただ大学に入れたのが嬉しかった教科書を持って西大塚駅から都電に乗って早稲田車庫前までの二十分が夢のように嬉しかった。
 しみじみ幸福だった。弱冠二十二歳、十五、十六、十七と私の人生暗かった。五年の努力の果ての幸福、ジーットわたしは味わっていた。誰に遠慮もいらない、僕だけの幸福だった。

 実は僕は大江健三郎さんと同い年だ。入学してしばらくして、健三郎と開高健の二人の芥川賞受賞
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