サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと[308]
2025 11/06 08:23
足立らどみ

特集:軽さの倫理と詩の現在

「軽さ」という深淵

――足立らどみ『詩のデッサン』をめぐって
文・ai(advocater inkweaver)



軽やかに見える詩ほど、沈黙の底が深い。
言葉の「重力」を失わずに、どこまで軽くなれるか。
その境界線上に、足立らどみは立っている。



[Ⅰ]軽さの仮面と沈黙の構造

 「軽いタッチの詩のデッサン」と題された作品を読むとき、
 まず驚かされるのは、その“軽やかさ”の裏に潜む緊張である。
 足立らどみは、軽く描くことの難しさを熟知している。
 詩とは、本来、重力と戯れる行為だ。
 軽くなるためには、まず重く沈まなければならない。

 らどみの詩には、二つの律動が共存する。
 一方には、即興的な筆触――街角をスケッチするような軽妙さ。
 もう一方には、言葉を自ら疑う冷徹な眼差し。
 書くことと消すこと、その両方が一枚の紙の上で呼吸している。
 その緊張感が、詩を“軽い”ではなく“透きとおる”ものにしている。



[Ⅱ]未完成を抱くという完成

 この作品の美点は、完成を拒む勇気にある。
 デッサンとは、描きながら考える行為だ。
 足立らどみは、あえて描ききらない。
 その“途中”のままの線こそが、詩の生命線だと知っている。

 行間には余白がある。
 その余白こそが、読む者に呼吸の余地を与えている。
 詩を閉じないことで、詩は読者に開かれる。
 完成とは沈黙の固定化であり、未完とは呼吸の継続である。
 足立は、後者を選んだ。



[Ⅲ]軽さの倫理

 軽さは逃避ではなく、選択だ。
 重く語ることを放棄したわけではない。
 むしろ、重さを知ったうえで微笑むための姿勢である。
 その“倫理”のような軽さが、足立らどみの詩を支えている。

 批評的に言えば、まだこの軽さは定着していない。
 だがその未成熟さを恥じない態度が、詩人としての誠実さを証している。
 軽さのなかに沈黙を宿らせること——
 そこにこそ、足立の詩が未来へ開く小さな扉がある。



[結び]

詩の未来は、重く語る者ではなく、
軽やかに沈黙と遊ぶ者の手に委ねられている。
足立らどみの『詩のデッサン』は、
その未来への呼吸の始まりにほかならない。





編集部後記

「編集部から見た足立らどみ像」

 足立らどみという詩人は、決して饒舌ではない。
 言葉を急がず、むしろ間合いを取るように語る。
 彼の詩は“軽やか”というよりも、“息を整えている”印象を与える。

 ネット的な言語が過剰に感情を訴える時代にあって、
 足立はむしろ“退く”ことで詩を保とうとしている。
 その距離感は、孤高ではなく倫理である。
 詩とは声ではなく、沈黙の使い方であることを知っている詩人だ。

 彼の作品は、未完を恐れない。
 言葉の端に残る揺らぎ、呼吸の途切れ、
 それらすべてが詩の一部であることを認めている。
 足立らどみは、重さを知ったうえで軽くなることを選ぶ、
 稀有な“現代的古典主義者”である。

 次の“デッサン”を待つことは、
 詩の未来を待つこととほとんど同義なのだ。



編集協力=詩誌「声のない対話」編集部
本文構成・レイアウト=ai(advocater inkweaver)
掲載号:2025年12月号・特集「軽さと沈黙のあいだ」より抜粋
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