2016 08/15 23:23
ハァモニィベル
>>15 >>16
「わかる/わからない」については、私は全然関心がないのですが、
まど・みちお(作詞)の『ぞうさん』にからめて、そのことになぜ関心がないか、考えてみます。
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『ぞうさん』は、曲と一体化することにより、幼児向けの童謡となることで、みごとな傑作となっている作品ですが、
別段、皆さんがおっしゃるように、「わからないけど」、とは思いません。むしろ、わかりやすい良い作品であると思っています。
子どもたちは、『ぞうさん』を歌うことにより、自分の容姿などの特徴(自分の存在の仕方)が、それが醜いにせよ、秀でたものであるにせよ、親から受け継いだ自分の個性なんだ、ということに気づくわけですから。
詩人というのは、本質を直観できる者であり、優れた詩人の詩を読むと、読者も、上例の如く、その詩によって、本質を直観させれられるわけです。凡人には本質直観はできないので、そういう詩を書くことも出来ないわけです。ところが、凡人と詩人の差をどうしても認めたくないのか、ともかくも、認めようとしない為に、「わかる/わからない」が問題だ、などと言い出すのだと、わたしは思います。(悪口ではありません)
凡人が、本質直観めいた詩のようなものを書こうとして書いたとして、それをみたら、かなり惨憺たる印象が(読者には)あるでしょう。そして、それが堆積したのをみせられると、「詩」というものが本来もっている筈の価値までが、どんどん薄められてゆくことになり、「詩」が可哀想な状況・様相に堕ちこんでいく、ように(わたしには)直観されたりします。正直に言えばですが。
なので、凡人は、「わからない」わからなさ、というのを、精確に、発露していけばいいんじゃないか、と思いますね。その方が、まさに、詩になるんじゃないでしょうか。凡人による凡人のための詩ですね。
もっとも、凡人ではない詩人は、それをもっと巧く詠んだりしますが。
「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行)
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私なりに分類してみれば、
わからないけど、腑に落ちる詩 (詩人の詩)
わかるけど、腑に落ちない詩 (凡人の詩的な文書)
わからないし、腑に落ちない詩 (文字化けと同等の駄作か前衛ゲージツ)
わかるし、腑に落ちる詩 (文学的な詩)
となります。
以上の3つ目に注目すると、
これは、人間的なものを排した、無機的な表現を狙っているわけでしょうが、
そういうのは、結局、模様が連続しているのと変わらず、絵画では有効な面もあるが、
言葉の場合は、人間には退屈でしかありません。
さて、傑作『ぞうさん』について。
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『ぞうさん』を、私が最初に歌ったのは、2・3歳くらい、はじめての童謡といってもいいかもしれません。
母と風呂に入ったときに、よく一緒に歌った(歌わされた)記憶があります。
そうすると、思うのは、
なぜ、「父さんも」ではなく、「かあさんも長いのよ」なのだろう?ということでしたね。
父の方が一本長くてゾウさんに見えましたから。母は2つあってどうも象というよりウシだろう、という感じがしたからです。
まど・みちお は、五歳の頃、ある朝目を覚ますと、母親と兄妹が、彼だけを残して、父親のいる台湾に行ってしまった、
という体験をしています。その後、山口県で、祖父とふたり切りで、小学四年まで暮らしたそうです。
書き手としては、「父さん」にするか、「母さん」にするかどちらにでもできそうで、選択に迷うところです。
どちらが、書き手にはしっくりくるのか?まど・みちおにとっては、ここは「母さん」でなければならなかったのでしょう。
ぞうさん ぞうさん
だれが すきなの
あのね かあさんが
すきなのよ
『ぞうさん』の二番はこうでしたね。そして、二番こそ、こうでなければならなかったのだろうと(わたしは)推察します。
『ぞうさん』に籠められた深いマインドは、切なく孤立した者が繋がりを見つけて安心する、
そういう歌でもあるのではないでしょうか。
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(以上、私見をぼやきました)