【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[745]
2019 06/04 03:15
ハァモニィベル

よし。じゃあ、ぐにゃぐにゃタッコちゃんに
少し骨のあるところを見せてもらおうか。



>>744)「批評という近代兵器」より「もうちょっと土人っぽくやりたいのよ。」

と、「近代」なんて古い言葉を持ち出して来て、それよりもっと先祖返りしたいと言う以上、

そうなると、

流行より、ずっと深い所にある、物事の本質の方に触れなければならないぜ。

大丈夫かいタコ入道、息が続くかな。



と、わたしも愛情を示した上で、
一つ<撰>してみることにしよう。


古い「近代」は、個性を重視称揚した時代だったが、いまや現代は個性が成立しない時代だと言われたりするけれど、
周囲の製品を見渡すとホントに個性のコの字も見当たらないことが多いね。日本のどこに旅してもお馴染みのファミレスばかりだしね。
個性が死んだのか、殺されてしまうのか、そこのところ美味く、わたしに教えて欲しい。



まず、第一に、
そもそもさ、君の言うその土人は、性善なのかね性悪なのかね?
(二項対立アレルギーの絶対主義者だったりしたら最悪だね)

古来から、人間というものは、根っこは「善」なのか「悪」なのか、について様々に議論されてきた。
タッコちゃんはどう思うのか、以下の引用抜粋を読んでその問いに答えてほしい。
その答えをみて、君を再びタッコングと呼ぶかどうか決めることにする。


●――――――――――――〔引用開始〕

 嫉妬について 

 もし私に人間〔が性善〕であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は狡猾に、闇の中で、善いものを害することに向って働くのが一般であるから。

 どのような情念でも、天真爛漫に現われる場合、つねに或る美しさをもっている。〔しかし〕嫉妬には天真爛漫ということがない。愛と嫉妬とは、種々の点で似たところがあるが、先ずこの一点で全く違っている。すなわち愛は純粋であり得る〔のに〕、嫉妬はつねに陰険である。

〔・・・〕ひとは自分〔で勝手に妄想し、それに対して〕嫉妬する。〔・・・〕

〔嫉妬には〕自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。〔・・しかし〕嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。

嫉妬がより高いものを目差しているように見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向っているのである。この点、愛がその本性においてつねにより高いものに憧がれるのと異っている。

〔・・・〕嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに関してひとは嫉妬するのである。これに反して愛の対象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。

 嫉妬とは〔・・〕平均化を求める傾向である。
 
〔・・・〕英雄は嫉妬的でない〔と言うが〕彼等においては功名心とか競争心〔がそれに代わる〕情念〔になっているからなのであろう。両者は同じだろうか?〕〔・・・〕功名心や競争心はしばしば嫉妬と間違えられる。しかし両者の差異は明瞭である。功名心や競争心は〔公共的な意識だが〕、嫉妬〔心〕は〔公共意識がなく、全て〕を私事と解して考える〔からだ。〕

 嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。

 もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。

 自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。〔・・・〕 嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって〔である〕。

嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。
――――――――――――●〔引用終了〕


さて、とても古い 三木清『人生論ノート』から、一部を抜粋して引用した(内容を変えずに、読みやすく調整してある)。これをいま読んでも、べつに違和感なく読めるし、むしろ、腑に落ちる指摘だと思うけれど、どうだろう?

嫉妬する者は、つねに公私混同する。という指摘も面白いね。

それに、何と言っても
>嫉妬がより高いものを目差しているように見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向っているのである。

と言うのが、恐ろしいほどイイね。

ちなみに、引用の中に英雄の情念に触れた箇所があったけれど、英雄の情念というのは、嫉妬の情念と対置されるものだから、当然、卓越したものを目指す精神だろう。それについては別に、「名誉心について」という一節がある。
そこには、こう書かれる。


●――――――――――――〔引用2開始〕
名誉心と虚栄心とほど混同され易やすいものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。〔・・・・〕

虚栄心の虜になるとき、人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失うのがつねである。

ひとは何よりも多く虚栄心から模倣し、流行に身を委かせる。流行はアノニムなものである。だから名誉心をもっている人間が最も嫌うのは流行の模倣である。名誉心というのはすべてアノニムなものに対する戦いである。

四足で地に這うことをやめたとき人間には名誉心が生じた。彼が直立して歩行するようになったということは、彼の名誉心の最初の、最大の行為であった。

〔・・〕人間はもはや環境と直接に融合して生きることができず、むしろ環境に対立し、これと戦うことによって生きねばならぬ。――名誉心というのはあらゆる意味における戦士のこころである。騎士道とか武士道とかにおいて名誉心が根本的な徳と考えられたのもこれに関聯している。

世間の評判というものはアノニムなものである。従って評判を気にすることは名誉心でなくて虚栄心に属している。〔・・〕両者を区別することが大切である。

〔最後に〕
ゲマインシャフト的な具体的な社会においては抽象的な情熱であるところの名誉心は一つの大きな徳であることができた。ゲゼルシャフト的な抽象的な社会においてはこのような名誉心は根柢のないものにされ、虚栄心と名誉心との区別も見分け難いものになっている。
――――――――――――●〔引用2終了〕


ゲゼルシャフトになりきれずに、ゲマインシャフトにも戻れない、現代社会という竜の悲鳴に、嫉妬が交じり合うと
一番背の高い凡人が褒められ、まだ小さな英雄は貶められ葬られてしまう。

そうなるのは、どうやら三木清によれば、虚栄心の強い凡人と、名誉を重んじる英雄の区別がつかないせいだ、ということらしいね。


と言っても、三木清が言うように

>人間はもはや環境と直接に融合して生きることができず、むしろ環境に対立し、これと戦うことによって生きねばならぬ。

とは俺は思わないがね。

 「対立して戦う」というのは、どちらかの死を意味するからね。

俺は、最良の結果が出るように工夫しぬく。それが性善な人間の生きる道なんだろう、とぽややんと思っているよ。

但し、なるたけ温かい土地でね。

スレッドへ