2018 05/17 10:03
ハァモニィベル
【愛】 と 【嫉妬】について
なぜ、聖人君子は「嫉妬」という感情が沸かないのか?
これは、なにか仕組みとか悟りがあるわけではなくて
性格なんだろな、という気がする。
だいたい、人間は5歳児の頃と性格はそんなには変わらない。
立派に成長したり、悪い奴に変貌したりは、ごく平凡な人生を生きていて、
チェンジのしようがないのだろう、きっと。
聖人君子は5歳のころから聖人君子の性格をしている、と私は思う。
これは実際に、社会学者と心理学者等が、
5才児だけを集めておこなった集団実験観察の類をみると
そこに見えるパーソナリティーは、
子供の世界というより、はるかに、
まさに大人の縮図――の観を呈していることでもよくわかる。
それを踏まえて考えると
人は五歳のときの性格のまま大人になるだけである。
違いは
ただ、シャツのボタンを互い違いにはめてしまう不器用さがなくなって
ちゃんとボタンができるようになるだけではないのか。
そんな気がする。
というのがわたしの仮説だ。
なので、それじゃイケマセンとか、コウすべきなりという話では全然ない。
それはもう手遅れであろう。
さて、
*
(聖人君子が)「嫉妬」しないのは、感情がクールだから、ではない。
感情を動かす方向が違うのだ。
その1. 試合で勝てないとしたら
相手の選手に嫉妬しても仕方あるまい。
自分が、四回転ジャンプを練習する、その「熱意」にエネルギーが向くだけだ。
けして、相手のクオォーターバックに反則タックルしたりしないし、必要もない。
その2. 恋愛で悩ましいときには
片思いの場合にしても、浮気の疑いを持った場合にしても、
「嫉妬」という方向にどうしてもならない。
相手の気持ちの在り方がどこに向いているのか、を知ろうとするだけだ。
浮気なら、誠実さを疑う という方向で、信頼がゼロになれば絶交へ向かうだろうし、
片思いなら、愛している相手が幸せであるかぎり邪魔はできない。
愛 もまた、よそのクォーターバックに嫉妬する必要はなく、
自分の愛情の価値を自分を知る人の為に誠実に磨くだけのことであろう。
ただ、聖人君子が、ひとつだけ「嫉妬」とよく似た状態になる場合があることはある。
そうなった場合、心の炎が燃え上がり抑えられなくなるだろう。
それは、愛するものが、山で遭難したとか海で行方不明とか、そういった場合だろうと思う。
そしたら、居ても立ってもいられないし、何処まででも何日でも探し回るだろう。
だから
注意しなければいけないのは、
偽物のダイヤならば、何度もテストしてみるのもいいだろうが(徒労なはずだが)、
本物のダイヤを、試験にかけるのは、その価値を減じるか、台無しにしてしまう恐れがあることだ。
小人の「嫉妬」は、非力な自分(プライド)を護もるために相手を犠牲にするものだが、
君子の「愛」は、自分を犠牲にして相手を護ろうとするものだ。だから、1度でも試したら取返しがつかない。
君子がなかなか人を好きにならない理由と
愛する人とは互いに信頼し合えることを重視する理由は、その辺りにある気がする。
*