【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[288]
2016 12/31 01:17
ハァモニィベル

>>286
蛾兆さん、竜野さん

こんばんは。
今回は、テーマ(歴史)ということで、とくに作品ジャンルを問わずに、自由に
談話交流しながら、進行中です。
長庚さんのように、ある作品のあるシーンが良かった、というのも、(もう少し
伝わるように書いてもらえるなら)有益だとおもいます。

私としては、相の手が入ってから、思いついたことをその都度反応してるので、ここから盛り上がるのか
掻き消えていくのか、予想がつきませんが、誰かが来てくれて続く限りは、いろいろ考えてみたいと思い
ます。



さて、

「歴史詩」っていうのがどういうものか、私にはよくわかりませんが・・・、



薄田泣菫の有名な詩。

ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かむなび)の森の小路を、
あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ、
斑鳩へ。・・・

というのは明治の詩ですね。
次の

海にして太古の民のおどろきを
    われふたたびす大空のもと

というのは、高村光太郎の歌ですが、作られたのは明治39年で、これは、
彫刻修行に渡米する船の上で詠んだといいます。

大正の詩になると、室生犀星が、

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
・・・

と言っています。

そして、

昭和の詩は、

・・・
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を

 (峠 三吉 「仮包帯所にて」)



詩というのは、それが歴史に向かっていくのか、振り返っているのか、あるいは、
ぶつかっているのか、という違いはあっても、みな、
意識のベクトルを持っているようです。

では、いま、
平成の詩は
何をうたうのか?

どこにも向かいようがない閉塞のなかで、
ひとの意識のベクトルは皆「金儲け」に向かう(のが自然である)そんな気がするなかで

(言葉の形)だけを解脱させて遊んでいればいいのだろうか、


平成の詩が、その作品のなかにどんな歴史を刻んでいるのか、
それが(わたしには)興味深いことは確かです。

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