【petit企画の館】/蝶としゃぼん玉[224]
2016 10/10 13:22
ハァモニィベル


もう一度、漢文に挑戦してみます。
まずは、原文と書き下し文を示します。

※ ※ ※

 知 魚 樂  (『荘子』外篇 秋水第十七より)

(原文)
莊子與惠子遊於濠梁之上莊子曰魚出遊從容是魚樂也惠子曰子非魚安知魚之樂莊子曰子非我安知我不知魚之樂惠子曰我非子固不知子矣子固非魚也子之不知魚之樂全矣莊子曰請循其本子曰女安知魚樂云者既已知吾知之而問我我知之濠上也

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(見やすく整理すると、)
荘子与恵子游於濠梁之上。
荘子曰 「魚出游従容、是魚之楽也。」
恵子曰 「子非魚、知魚之楽。」
荘子曰 「子非我、安知我不知魚之楽。」
恵子曰 「我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽全矣。」
荘子曰 「請循其本。子曰女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」
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〔書き下し文〕

莊子、惠子と濠梁(ごうりょう)の上(ほとり)に遊ぶ。
莊子曰く、「魚の出でて遊ぶこと從容(しょうよう)たり。是(こ)れ魚の樂しむなり」と。
惠子曰く、「子は魚に非ず。いずくんぞ魚の樂しむを知らん」と。
莊子曰く、「子は我に非ず。安んぞ我の魚の樂しむを知らざるを知らん」と。
惠子曰く、「我は子に非ず。固(もと)より子を知らず。
      子は固より魚に非ざるなり。
      子の、魚の樂しむを知らざるは全(まった)し」と。
莊子曰く、「請ふ、其の本(もと)に循(したが)はん。
      子曰ふ、『女(なんじ)いずくんぞ魚の樂しむを知らん』と云ふは、
      既已(すで)に吾の之(これ)を知れるを知りて、我に問ひしなり。
      我、之(これ)を濠(ごう)の上に知るなり」と。 

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それでは、以下(私の訳)です。

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 知 魚 樂  (荘子, ベル訳)

荘子と(名家という論理学派の思想家)恵子(けいし)が、ある日、
川のほとりを散歩しながら、ふたりで橋を渡ったときのこと。
荘子が言った。

  「ゆうゆうと泳いでいる魚を見たまえ。じつに楽しんでいるじゃないか」

すると恵子が、
  「魚ではない君に、魚のことがわかるわけがないじゃないか。何処からそんなことが言えるんだい」
すると荘子も、
  「ならば、私ではない君に、私のことはわかるわけがないじゃないか。そうだろ」

すると、恵子はさらに、言う。
 「勿論、私は君ではない。だから、私に君のことはわからない。
 君も勿論 魚ではない。だから、君に魚のことは解らない。これは間違いないことだよ。そうだろ」

対して、荘子は次のようにこたえた。・・・(つづく)

  *

 さて、ここは、ややこしい所で、様々な(訳と解釈)がある。たとえば……、

根源にたちもどろうではないか。君は「おまえにどうして魚の楽しみがわかるものか」といったが、そのときすでに、僕がわかっていることを、君は十分知っていて僕にたずねたのだ。僕はこの川のほとりで、その道理がわかった。(大濱皓『荘子の哲学』)

 *

 根本のところに立ち返ってみよう。君が私に、君はどこから魚が楽しんでいると分かるのかね、と言ったのは、すでに私には魚が楽しんでいることが分かっていることが分かって質問したわけだ。で、いま答えようじゃないか、私はつまり濠川のほとりでわかったわけさ。(蜂谷邦夫『荘子』 講談社選書メチエ)


 十冊以上の訳を比較してみたけれど、忠実に訳そうとしているせいなのか(?)、魚の心より不可解な訳文がじつに多くて(ごく普通の読者として)閉口したのだが、なかで納得できそうなものを紹介してみると――

 「貴様は魚の心がわかるはずがない」といった瞬間に、貴様は私が魚の心を知り得るということを是認しておる。(そのときの荘子の考えでは、もし恵施が荘子に向かって、「貴様は魚の心を知り得ないぞ」と、 こういうならば、その瞬間に恵施みずからは、自分が荘子の心の中を忖度するということを許しておる。もし甲の者が乙の者の心を忖度するという前提を許すならば、今度荘子が、荘子に非ざる魚の心を忖度するということも、許さなければならぬというのであります。)〔諸橋轍次 『荘子物語』 〕

 *

そんな言葉の遊戯は止めにして、根本に立ち返って議論しよう。きみはいま僕に魚でないのに魚の楽しみなどわかりっこないといったが、それはきみが僕に魚の楽しみの分かっていることを知っていて質問したのである。すべて真実なるものは人間の分別知や言論では捉えることはできず、議論を超えた境地で体得されるほかない。きみが議論の上で肯定するにせよ否定するにせよ、きみ自身は議論を超えたところで僕の知っていることをすでに理解しているのであるから、それと同じく、僕はまた魚の楽しみをこの濠水の橋上にいて議論を超えた境地で理解するだけである。(福永光司 『莊子』)


さて、この部分。
 私のかってな訳(私的意訳)は
 こんな感じになった。

 (さきほどの莊子のこたえのつづき)

 ※

「いいかい、よく考えてみようじゃないか。
 そもそも、君は、私に 『魚のことがわかるわけがない』と言った時、私が分かってないくせに分かったつもりでいるのだと、そう決めつけたんじゃないのかね。少なくとも、私が分かったつもりでいるのだ、と君はどこかで直観したわけだ。私のほうは橋の上で、魚のゆうゆうとした楽しみを直観したということだよ。
 それにあのとき、私が魚になったわけではなく、ゆうゆうと泳ぐあの魚が私だったということ、それは言ってもわからないことだろうし、またそれは言うまでもないことだ、とわかってほしいね」



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#莊子の有名な話を(私風に)訳してみました。

 
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