2016 03/22 09:40
るるりら
一年生になったら
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この詩を取り上げたいのは、この詩は おそらく新入学のこの季節に だれもが想起する詩だと思います。だから、なんとなく今年から詩をはじめようかなという人が御覧になっていても入りやすい題材だと思うし、この詩の視座って 大人も立ち返ってみるべきじゃあないのいう提案からです。
この春に新一年生なのは小学生とは限らない 中高大学の学校はもちろんのこと社会人一年生、はじめて後輩と呼べる人ができた人、はたまた重役一年生 敬老会一年生とかの人もいると思います。そけぞれのポジションで共通していえる悩みの大半は、人間関係じゃあないかしら。それも縦の関係が 人を苦しめる。
けれど、この詩は違います。この詩は高みを夢見ながら 人間関係は縦ではないですよね。
冨士山の上で みんなで おむすびを食べるという視座なのだから
とっても おおらかな横の関係。そういう詩座がもてないかなあと思うのですよ。それって、この公園の目指しているところとも 同じような気がするのです。高みに自分の心意気を置いて、しかも人を蹴落とさないそういう詩座を どなたか複数の人々と共有したいなあ、なにかできないかなあ。という思いから みなさんに提案してみました。
カイトさんが言っておられるように、数字をあまり理解してなかった頃には 百ってすごい数字だったですよね。大人になると %という言葉に スライドした気がする。
百という言葉に おびやかされたりすることも多々あるのは縦の関係のせい。そうではなく 他者と並んで物をみたり感じたりする時間の ゆたかさ。 必要だと思うのですよ。
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●ハァモニィベルさんへ
「エーリヒ・ケストナー」について不勉強なので、読んでみますね。
検索では下記のがでてきしまた。これかしら?
【詩歌】E・ケストナー「絶望第一号」 ~人生処方詩集~
ちいさな男の子がひとり 往来を走っていた
そして ほてった手に 一マルク握っていた
もう 遅かった そして 店員たちは横目で
壁の時計を見まもっていた
彼はいそいでいた 彼は跳び上がった そして口の中で言った
「パン半分 ベーコン四分の一ポンド」
聞いていると歌のよう 急にそれがやんだ
手をあけた お金がなかった
彼は そこに立ちどまった そして 暗やみに立っていた
ショーウィンドウの中で あかりが消えた
きらめく星は なるほど きれいだが
お金を探すには 光がたりぬ
いつまでもうごくまいとするように
彼は立っていた そして こんなにひとりぼっちになったことはなかった
ガラスのそとで 鎧戸(よろいど)が鳴った
そして 街灯が居睡(いねむ)りをした
なんども 彼は両手をあけた
そして なんども ゆっくり裏がえした
つぎに いよいよ望みが絶えた
それっきり 拳固をあけなかった・・・・
父親は お腹をへらしていた
母親は ぐったりした顔つき
ふたりは こしかけて 少年を待っていた
少年は内庭に立っていた ふたりはそれを知らなかった
母親は そろそろ 心配になった
彼女は 少年をさがしに行った ついに見つけた
彼は 絨毯掛けの鉄棒に 黙って寄りかかり
ちいさな顔を 壁にむけていた
彼女は ハッとして 訊いた どこに行ってたの?
すると 彼は大声で泣きだした
彼の悲しさは 彼女の愛よりも 大きかった
そして ふたりは しょんぼり 家へはいった
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□エーリッヒ・ケストナー(小松太郎・訳)「絶望第一号」(『人生処方詩集』、岩波文庫、2014