HHM2(第7回批評祭)!!!!!!![33]
2014 04/08 03:25
こひもともひこ

>>31 澤あづささんへ

 >「だれそれの言った○○」と出典が明記されているほうが、わたしにとっては親切ですね。

デリダの脱臼、シクロフスキーの異化、こひもともひこのマグマ星人&ババルウ星人、をどこまで説明しているのか。私の偏見の中に、「だれそれくらい読んどけ」という人物は『○○』の説明をしない(できない)というものがあります。出典の明記はありがたいし、自分が興味のあるものなのであれば勉強もしますが、それと「○○とはなんぞや」を説明することとは別の話になる。

ここに挙げた「マグマ星人とババルウ星人」は、私のツイート上で「スノッブとジャーゴン」の比喩として使ったネタからきています。スノッブは「知識・教養をひけらかす見栄張りの気取り屋(ウィキより)」で、ジャーゴンは「隠語。ある特定の専門家や仲間内だけで通じる言葉や言い回しや専門用語(ウィキより)」として意味を拾い、それをマグマ星人とババルウ星人にあてています。マグマ星人は、連れ歩く双子怪獣のブラックギラス・レッドギラスがいるから偉そうにしているスノッブで、ババルウ星人は、ウルトラマンレオの弟であるアストラに化けて悪さをしたのでジャーゴン。二星人まとめて、仲間内だけで通じるネタ(ジャーゴン)ということも比喩しています。

この比喩はゆるいくくりしかないので、語弊はあるでしょう。なので真面目に追求する場合には使用しない。けれど、「だれそれの言った○○」をよく使うタイプの人物は、こういった説明さえしようとしないように見受けられる。

 >ソシュールと日本語文法を混同するような脳みそでは、芸術ができたとしても国語はできまい

ここは、なにを云わんとしているのかはよく分からないのですが、「混同する」ことへの批判なら分かります。ソシュールさんは、日本語を使ってシニファンやシニフィエを説明したわけではありませんからね。

 >しかし>>30のお話は、「構造」という用語の語弊のために、話がかみ合っていないように思います。

ここは、ふたりの視点の違いから起きたズレのように思います。
澤さんの脳内構造主義から考えられる「カミュの話は紅月さんを引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」ということと、私の形式構造主義から考えられる「田中作品と同量のブロックを使った詩があれば、田中作品じゃなくてもよくね?」というのはどちらも言おうと思えば言える。けれど、批評文を書いたわれわれには、この作品でなければならない理由はある。まあ、これは批評文を書くわれわれの問題・熱量の話になちゃいますけどね。ですので、

 >わたしが>>29で述べた「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?みたいな系統」というのは、「わたしの述べた脳内構造主義が陥りがちな傾向」の話で、こひもさんの作品とは関係ありません。

ここで言われている29への返信内容は、私と澤作品のどちらにも当てはめることができることとして書きました。

 >わたしが今回やった読解は、要するに解題です。合評の部分では主に「形容矛盾が鑑賞に及ぼす効果」の具体例を挙げています。対してこひもさんのヒヒョーは、わたしの知る用語で言えば「形式」(フォルム)の調査であり、仮説も結論もないので論(話)が成立していませんし、わたしのヒヒョーとはなんの共通点もありません。比較する意味はないと思います。

これは現在悩み中です。
批評ってなんだろう? と考えた場合に、私のやった形式分析と、読解・解題とはどちらがいい方法なのか。HHM2の提出作品の簡単な個人読解がこれ→LEGOの実践+こひもともひこの解釈文 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=288807 になるのですが、論として成立させるのであれば、これも不完全でしょう。批評と、自分のやりたがることとのズレは感じています。


最後に、ファーブル昆虫記の岩波文庫版は、どれでもいいので一冊は読んでおいたほうがいいと思います。ファーブル先生は詩人です。ちょいと書き出します。

◇◆

 誰にでも、その人の思想の向きに従って、それまでは夢にも思いつかなかった展望を見せてくれて、精神に一つの紀元を劃【かく】してくれる本があるものだ。それは新しい世界の扉を大きく開いてくれ、その後我々は知力をそこに傾けることになる。それは一つの火花で、炉に焰の口火を運んでくれるものだ。炉の中の薪はこの火花の助けがなければ、いつまでも役に立てられないままで終る。そして、我々の思想の発展上、新しい紀元の出発点となるこんな本を手にする機会は、よく偶然が与えてくれるものだ。ほんのつまらない事情、どうかして眼にふれた数行の文字が、我々の将来を決定し、運命の轍【わだち】の中に我々を引き入れてしまうのだ。

『完訳 ファーブル昆虫記1』山田吉彦・林達夫 訳(岩波文庫)より


 生の偉大なる全体【インテグラール】は、丁度幾何学者たちの積分【インテグラール】がゼロに近い量で構成されているように、こうした無に近いもので構成されているのである。

 能力の起源は我々にはわからない。何故ここにはある才能があり、かしこにはちがった才能があるのであろうか。誰がそれを知っていよう。我々はいつかそれを知ると自負することさえできるであろうか。

 レオミュールがすでに書いた蝉の博物誌を、また書くということは、先師の知らなかった一つの取り柄がないかぎり、不必要である。

 伝統の密林の中に時おり斧を入れることはよいことである。既成観念の束縛を振り切ることは有益なことである。真理は邪魔な滓を取りのぞかれたとき、はじめて、従来我々に教えこまれたものよりもはるかにすばらしい姿で輝きわたることがある。

 類推はもちろん貴重な手段ではある。だが直接に観察された事実には及びもつかないものである。

 我々には、我々がかなり誇りとしている我々の論理がある。糞をこねる虫には、この場合、我々のよりもすぐれた彼等の論理がある。この虫は明智、物事を見透す力を持っている。

 ものの「如何にして?」と「何故?」との領域に足を踏み入れることが危険なことは私も知っている。この神秘の国では、足をとられやすいものである。地盤はぐらぐらし、足はずぶずぶとめりこみ、向こう見ずの者を誤りの泥沼に呑み込んでしまう。が、危険だからといって、このような突進を断念せねばならぬであろうか。何故?

 「道具は職人を作らない。」昆虫はどんな道具を身に備えていようが、それで専門家としての能力を発揮するのである。

 おお、本の中ではあんなにも勝ち誇り、現実に直面しては全く役に立たない素朴な理論よ。

 なんと、理論よ、お前はこれをどう考える? 前二本の肢について、お前は説明らしいことをいっている。しかも他の四本の肢はこれが偽だということをきっぱりお前にいっているではないか。おまえの根も葉もない幻想を真理だなどと振りかざすのはよしてくれ。

 私はこれについて絶対に何も知らないとはっきりいっておこう。

『完訳 ファーブル昆虫記5』山田吉彦・林達夫 訳(岩波文庫)より

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