HHM2(第7回批評祭)!!!!!!![30]
2014 04/06 21:50
こひもともひこ

>>29 澤あづささんへ

構造主義ではないと自分でも思っています。おそらく私が力を入れているのはポスト構造主義に近いのでしょう。でも、どちらにしろ私は「自分が主張する」という意味での主義以外の「〜主義」というものにはあまり興味がありません。哲学もそうなのですが、「そんなの自分で考えりゃいいじゃん」と思ってしまうところがある。これは、参考になる書籍や意見を無視して我を通すという意味ではありません。そうではなくて、「それはデリダのいう〜でしょ」というような物言いをする相手の話に納得した経験の少なさからくる偏見というのでしょうか、「分かりやすく説明できないのなら、デリダとかいってんじゃねーよ」ということからきています。

 >しょっぱなにぶっ立てた前提が的確でなかった場合、100%話にならない

これはよく分かります。この「100%話にならな」くなくするために、私のやる構造分析をする意味もあるのだろうと思います。

ファーブル昆虫記にある話で、タマムシとゾウムシしか狩らないツチスガリというハチが出てきます。このハチは、いろんな種類のタマムシ・ゾウムシを、針の一刺しで生きたまま仮死状態にして、そこに自分の卵を生みつけます。でも、このハチが狩るのがなぜタマムシとゾウムシだけなのかが分からない。これはやがて、昆虫の神経系を調べる生理学から解答を得られるようになります。タマムシとゾウムシは、神経節が一箇所に集まっている昆虫だった。このハチは、この神経の集中している箇所に針の一刺しを行い、全身麻痺をさせていた。他の甲虫はこの神経節が数箇所あるので、一刺しで仮死させることができないことが分かった。(簡単に説明したものがこちらで読めます→http://www.k5.dion.ne.jp/~sasara-p/konchuu_7012.htm )

この理由を考えるとき、「ツチスガリはそういう進化をしてきたからだ」と進化論から説明することも可能ではあるでしょう。けれど、神経系を調べるという、動物行動学とは別のアプローチから事の理解につながることもある。

次に移って、
 
 >「そんな話はこの作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」みたいな系統です。

というのは、言える場合もあるのかな、とは思います。

 >まず細部表現を整理し、たとえば「この作品は『片眼』すなわち偏見の構造を描いている」とかいう、話の前提をぶっ立てる。

という手法をされている澤さんの場合は、取り上げた批評対象作品である必要性は高いように思います。今回提出した私の作品の場合は、「この作品(あるいはその作家)を引き合いに出さなくたってできるんじゃね?」という見方はできるでょう。ただし、私の批評対象作品と同程度のブロック分け(分量)を使わなくてはならない詩を他で見たことがない。この「見たことがない」ということを軽んじる向きは、特に詩人の中にあるような印象を持っています。
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