HHM2(第7回批評祭)!!!!!!![27]
2014 04/05 16:24
こひもともひこ

>>25 澤あづささんへ

 こひもともひこ:
 >詩の説明は「しない・したくない・できない」し、詩の量産もしませんと言う人をどう評価すべきなのかは、私にはわからない。
 
 澤あづさ:
 >まず説明を試みますが、わたしの知る限り紅月さんは、「詩の説明をしない」ような人ではありません。
 >むしろ強い意志を持って議論する人です。ただ信条として、自作を解題しないだけです。

ここは、難解な作品を作る書き手の多くが、自作の改題をしたり、他人の作品の読解をしたりしない傾向があるということを、紅月さん個人にも当てはめて書いてしまっていたようです。私の思い込みですね、反省。

紅月さん個人に対しては、「同一人物が書いた言葉の群れから、そのひととなりが浮んでくる」というテキスト論を考え中の私にとっては、澤さんの提出されたHHM2作中にあるように「めんどくさ」くはあります。

 澤あづさ:【HHM2参加作品】
 >「上記メビ版には『suigyo』と署名されていますが、著者は下記改訂版決定稿と同一です」
 >「めんどくさっ」
 >「メビおよび文極では『no title』と題されましたが、現フォ版からあきらかなように『題名なし』の意です」
 >「めんどくさっ」
 
つぎに、ここは合点しました。

 澤あづさ:
 >わたしの読解をおもしろいと評価していただけたのに、その読解への評価が「自作を解題しないという作者の信条」への評価に繋がらないのは、やはり悔しいですね。
 >紅月さんにその信条とプライドがなかったら、おにゃのことわたしの愉快な錯乱合評など、生まれすらしなかったのです。

書き手本人による解題がないからこそ、読み手が自由に偏執読解することができる。
私自身の見解は、かつてメビウスリング内で書いたとおりです。

 こひもともひこ:メビウスリング(プロ詩投稿城)内に提出された澤あづさ『スイスのことは知らん(改訂)』のコメントより。
 >ものすごく率直な疑問として、多くの人はなぜ、自作を語ることを恥や、してはいけないことと考えるのかは、私にはさっぱりわからない。仮に私が澤さんの作品を「〜のことを書いたもの」として読んだあと、澤さん本人が自作解説したのを読むと、まったく的外れだったとしても、「でも私はこう読んだ」と考える性格をしています(もちろん、少しは凹みますが)。

書き手・作者が自作の解題をしたとしても、それは作者という読み手による読解として判断するので、作者による解題を「こう読め」という風には捉えません。「こう読め」ではなく、作者という読み手による個人読解になるのか、作品の構造分析になるのかは、その説明文を読んで判断する。
なので、
 
 澤あづさ:
 >著作者としての意向(自作を解題しないという信条を含む詩論など)

は、私は興味がありません。

 澤あづさ:
 >「正確に伝わるように書いた(が諸般の事情により理解されなかった)こと」の実例なら、掃いて捨てるほどあります。

これは、わたし自身、自作に対する他人とのやり取りでいやになるくらい経験しているので、さらに知ろうとは思いません。

 澤あづさ:
 >ちょっとした作家論的な情報があれば、この書き手への入り口が広がるのかもしれないのでしたら、情報をまとめてみたいという気持ちはないでもありません。
 >わたしはテクスト至上主義者ですが、作品理解には作家論も欠かせないと思っています。特に紅月さんはキャラが派手ですから、言行をまとめるだけでもちょっとした読み物になるかもしれません。

このやり取りをしていて輪郭がはっきりしてきたのですが、作者の情報(年齢・性別・政治思想など)を元にして作品を読み解こうとする作家論と、作者が書いた言葉(テクスト)の群れから、だんだんと作者のひととなりが浮かび上がってくるということは、実はつながっているのじゃないかと感じはじめています。けれどそうなると、テクストというものを、作者の一作品だけ(ぶつ切り)にしてみるテクスト論は、構造分析以外にできることがあるのか? 

澤さんの批評文(特に前回のHHM提出作品)は、言葉を徹底的に調べることから作品読解をしようとしている。これは書かれた言葉を調べて辿っていく説明であり、作中に書かれていないことを読み手の印象で勝手に創りだしているわけではない。これは「書かれた言葉の分析」といってもいい。ああ、これが構成になるのかな? で、私の分析は構成には踏み込まず、それがどういう手法(引用・本人文・句点までの区切り・詩)で書かれているのかをブロックわけしているので構造の分析になる。

これで返事になりましたでしょうか。
あとはなんだろう、私は澤さんからの影響を受けてますよ確実に。
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