生贄合評スレ[436]
2016 11/19 15:31
るるりら

こんにちは
『孤独な友に』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=323979
について書かせていただきます。

まず 一連目だけで、おかずぬきで ご飯が三杯はいけそうです。
しかし、二連目以降が、いざ批評しようとすると しどろもどろとなりました。
人名が たくさんでてきており、批評をしようとすると
あらぬ方向から 狙撃されそうな 嫌な予感がします。
人物名というのは 人によって 知っている事柄に相違がでます。
したがって、蛾兆さんと 同じ物をどの程度読んできたかも 試されてしまう気もしました。なんだかそこらへんのせいで、批評する気持ちが、萎えぎみだったのですが、一連目には魅力を感じました。

≫俺の詩に3回以上出てきたひとは
俺の友だちみたいなもんだ
と、君はいう

私の場合は、これと似た感情を 読書に対して もっています。
読書というもは、書き手の感受性を読者は、追体験する感じを体験することがありますので、
読書をするのは 友達を増やすみたいなもののような気がしています。
詩作と読書との違いは、詩作は 作者からのアプローチだから、
読書よりも 詩作のほうが 友達感が強いかもしれないなと、思いました。

がんもどきは、雁の似せてあるから がんもどきだとすると、
この詩の友達のようなものは ともだちもどきかもしれず
この「君」という人物にとって 詩とはなんだろう?
極端に生き方をした様々な人名の人々のことを、ともだちもどきとして包括しようとする瞬間。
この「君」の場合は 他人を他人とは思わない時間が 詩なのかもしれない。

孤独な夜に 大勢の ともだちもどきをひきつれて
まっすぐに飛ぶ雁の群れみたいな心の飛行をしている感じがしました。
わたしには 飛行の目的はわからないけれど、
分かるようでわからない飛行、それが トリスの飛行かもしれない。

ふわりと お酒で おさめたところが こ憎いと思いました。
そして、人名を読み返して やっぱり 怖いです。なにを批評させたがっておもっておられるやら
と、思いました。ひぃ
「君」「君」というてはるけれど、蛾兆さんご自身のことを「君」というてはる気がしました。

詩の主体性を ぼんやりとさせたいのは 孤独だからかしら?
逆に、ひとりではないという詩なのかもしれないです。
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