生贄合評スレ[350]
2016 01/20 08:25
高橋良幸

タイトル:静物 -nature morte-
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310904

<一>
静物画を描くために誰かが静物を配置する。その静物はもともと何処にあったものか。静物は描かれた後、元あった場所に仕舞われるのだろうか。それとも、どこか別の場所に置かれているのか。いずれにせよ、静物画だけがその配置をいつまでも残している。この詩の静物画は最終連の「白い皿のうえ」の「紅い実」で、その手前までは静物のありかと配置のされ方が書かれている。

一連目で、朝を迎える。朝は希望の朝だが、夜のあとの朝でもある。それは、闇の解決としての朝だ。言葉と同意が迎える朝。夜は暗く寂しい。でもその中を「ぼく」と「きみ」は二人で居る。だから「ぼく」と「きみ」が寂しく無いのかというと、違う。
なぜなら、朝を迎えたけれど、これから来る季節は冬だからである。赦される必要があり、悲しみが鎮まる必要がある。静物画が仕上がるまでに。

静物画が仕上がるまでに、春はまだ来ない。けれど朝は来る。花は咲く。けれど、それは秋の花だ。そして、花からは(解決としての)「朝」がこぼれる。配置されたもの(「その最期をもっとも正しく迎え」たもの)は、いまはきっとあるべき場所に戻されている。そして、静物がその場所に収まったころ、春が来て、春の花が咲くのだろう。春の花からは、たぶん朝も夜もこぼれる。そのときに静物画がどうなっているのか(それも、どこかに仕舞われているかもしれない)わからないが、静物画を描き終えた後はその絵が正しく、永遠に見えることだろうと思う。それは、とても正しいことだと思う。

<二>
そんな感想を持った中で、少し物足りなさも感じました。その物足りなさは例えば次に書くようなところからきていると私は思いましたが、じつは全然物足りなくも無いのかもしれないし、他の方の意見も聞いてみたいなと思います。
まず、2連目冒頭3行、4連目冒頭3行が急ごしらえの描写のように見えました。雨、小鳥、木々という単語だけで庭を描写するのはかえって庭の奥行きを狭めてしまう気がします。例えば「雨」を「水さし」に変更する。そして、「小鳥」を「鳥かご」にする。すると、タイトルと相まって言葉の必然性が高まると思います。しかし、そのまま変更しただけでは静物画的な単語が詩の中に増えて、文全体がタイトルに寄り過ぎてしまい、そのことで静物画から遠いイメージの「庭」のすわりが悪くなってしまうので、それらの単語に庭と関連づける修飾語は必要になると思います。例えば、「 あれは雨にさらされたままの水さしではなく」、など(しかしこうすると長くて収まりが悪くなるか。あと、水さしは次に出てくる花の器とイメージが重複するから使えないかもしれませんね。)。それと3連目、「目を閉じて」に対する「冬を開けて」もただ閉じるという言葉に対する開けるという言葉が反射的に書かれている(そして効果を発揮していない)ように見えました。
あとこれは物足りなさと別の部分ですが、「 あれ(これ)は〜ではなく」の構成が繰り返されている箇所において、その着地点(「〜ではなく〜だ」の、「〜だ(または体言止め)」の部分。6連目でいうと、「ピストルではなく〜指先」)がばらばら、または見つからないのがリズムを崩しており、2行あけの構成が生きていないように思えました。以上です。

<三>
と、書いて投稿しようとしたところでもう一度詩の内容をみようと思って作者ページからリンクを辿ったら、一晩のうちに書き換えられてしまったようでびっくりしたのだが、それは同題の詩だった。
静物 - nature morte -
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=313959

前にこれを読んだときはあまりピンとこなかったが(といってもあまり時間をかけて読んでいませんが)did=310904の詩を読んだ今では、did=313959の詩もああなるほど、と思う。上で書いた物足りないものが、ここにある気もする。構成的にはdid=310904の方がいいと思います。
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